河井継之助、江戸への遊学

1852年の春、河井継之助は江戸に遊学した。師と仰いだのが斎藤拙堂だった。
斎藤拙堂は河井継之助を普段、門人がめったに顔を出さない「詩文の会」にも出 席を許した。しかし、河井は文章や詩がうまくなりたくて江戸に出てきたのでは なかった。
やがて、斎藤拙堂の門を出て、古賀茶渓(通称:謹一郎)の久敬舎に入っ た。
河井継之助は書庫に入ることが許されて、『李忠定公集』という書物に出 合った。河井継之助はこの書物にひかれ、「この本こそ真の経済の書だ」と言い 切り、得意の写本を始めた。
彼がこの書を真の経済の書だと言い切った背景には、「経済とは経世済民の略である。乱れた世を整え、困窮している民を救うことだ」という思いがあり、その思想が『李忠定公集』なかに書かれてあることと同じだったからである。
また、久敬舎にいたころ、小山良運や花輪馨之進、三間市之進、川島鋭次郎らと藩政について日夜激論を交わした。彼らは周囲から、水を漏らさぬほど結束力が固いという意味で「桶党」と呼ばれていた。
河井継之助は次々に久敬舎で次々に学んでいったが、彼の学び方は師を次から次へ変えていくことだった。彼はその後、佐久間象山の門もたたいている。

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