河井継之助、越後の王陽明を名乗る

1844年に長岡藩の城下で火事があり、河井継之助の家は焼け落ちたため、現在の跡地(長町)に一家で移り住んだ。
1850年、河井継之助は側用人・梛野(なぎの)嘉兵衛の妹である“すが”と結婚。花嫁は16歳だった。
河井継之助は、青年時代から、儒学者や哲学者が著した語録や、中国の明の時代や清の時代の奏議書を写本していた。また、読書法についても、継之助は本を大切にすることで有名だった。本を汚す連中は学問をする資格がないと思っていた。その言葉通り、彼は本をていねいに扱い、汚すようなことは絶対にしなかった。
河井継之助が尊敬した学者は王陽明だった。徳川幕府の方針で朱子学を学ぶよう通達がだされていたが、河井継之助は「朱子学は死学であり、実学を学ばなければならない。民のために言行一致の学問が必要だ。それには王陽明がいちばん適切である」と考えていた。
王陽明を学ぶうちに、王陽明もいつも父母に心配をかける腕白者だと知った河井継之助は、自分のなかに「自分は越後の王陽明だ」という自負が芽生えていたのかもしれない。

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