河井継之助、評定方随役に任ぜられる

佐久間象山のもとに入ったものの、河井継之助は佐久間象山があまり好きになれなかった。
河井継之助が佐久間象山に抱いた印象は「象山は腹に一物あって、おもしろくないことがある。象山は偉いのは偉いとは思うが」というものであった。
河井継之助は江戸へでてきた1852年の暮れには故郷に帰っている。
しかし、1853年6月にアメリカ合衆国海軍のペリー提督率いる黒船がやって きた前後に、河井継之助は再び江戸に出ている。
そのときに彼は、次席老中であった長岡藩主の牧野忠雅に対して、世事に関する自分の意見を述べたところ、藩主は彼の言動に感心して「評定方随役」という役職を与えた。
「評定方随役」は目付けと同格のポストだった。と同時に、石高も30石増えて、河井家の石高は150石に増えた。「評定方随役」という仕事は、藩の首脳部が会議を開いて藩政の方針を決めるときに、その場に居合わせて意見をいう役目のことである。
まさに、河井継之助に合った役職であった。しかし、彼はせっかく任命された 「評定方随役」のポストを1854年の年明け早々に辞めている。その理由は、 藩の重役たちの河井継之助に対する反発が強く、彼が嫌気をさしたものだった。

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