河井継之助死後の河井家

河井継之助の葬儀は会津藩の城下で執り行われた。そして、会津藩へ侵攻してきた新政府軍が河井の遺骨を墓から掘り起こすのではないかと危惧した部下たちは、ある目印をつけた松の木の根元に河井の遺骨を埋めた。部下たちが予想したとおり、会津に侵攻してきた新政府軍は、河井の遺骨を持ち出そうとしたが果たせなかった。そこで、新政府軍の間に「河井は生きている」といううわさが広がった。河井継之助の遺骨が河井家にもどったのが戦後のことである。そしていま、河井の遺骨は、河井家代々の墓がある栄涼寺(長岡市)の埋葬されている。河井の墓は何度も倒されるという災難にあっている。それは、戦争を引き起こし、長岡藩を戦火に巻き込んだ張本人は河井であることに恨みを抱くものの仕業だった。長岡には、河井を素晴らしい人物だと褒めたたえる人もいるが、河井を憎んでいる人もいる。徳川幕府から明治政府に移ってから、河井家は継之助が死亡していたため、家名断絶の処分に処された。再興を許されたのは1883年であった。

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