蒼龍窟の誕生

1862年、長岡藩主の牧野忠恭が京都所司代に任命された。それを聞いた河井継之助は藩主が危ない目にあうのではないかと思い、京都所司代をやめるよう意見書を書いた。これには藩の重役たちが目をむいたが、彼の意見を聞き入れられなかった。そうこうするうちに藩主牧野忠恭は京都所司代として京都に赴任した。ある日、その藩主から長岡藩に「河井継之助をすぐ京都によこしてもらいたい、わたしの手助けをしてほしい」という指示書が届いた。さっそく重役は河井継之助のもとに赴き、「京都からこういう指示書がきたが、お前は辞退するだろうな」と詰め寄った。重役がてっきり藩主の京都所司代赴任に反対している河井継之助のことだから断ると思っていたのだ。しかし、河井継之助は「辞退しません。すぐに京都へ赴きます」と言って京都へ出向いていった。1863年の正月のことである。河井継之助はすぐさま、藩主忠恭に所司代辞任を勧めたが、忠恭はなかなか首を縦にふらない。ところが、1863年4月下旬になると、京都朝廷の命で攘夷の実行が決定されたのを受けて、忠恭は京都所司代を辞することを決意し、6月に辞任が認められた。忠恭は江戸に戻り、継之助は長岡藩に戻った。藩主・忠恭は今度は江戸幕府のなかで老中に任命された(1963年9月)。そして長岡藩に戻っていた河井継之助に対してまたもや指示書を出した。「河井継之助に物頭格御用人勤向・公用人兼務を命じる。至急江戸に出向させよ」というものだった。そこで河井継之助は江戸に出向き、藩主・忠恭に老中辞任を迫った。そのときに、辞任の撤回をするために説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明に罵詈雑言を浴びせ、藩主・忠恭の怒りを買い、公用人を辞して長岡藩に帰藩した。帰藩してから河井継之助は庭の松を眺め、ふと、自らを蒼き龍にたとえ、「蒼龍窟」と名乗った。

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