河井継之助の誕生と幼少時代

河井 継之助は、1827年1月27日(文政10年1月1日)に河井家の長男として生まれた。
父は河井代右衛門秋紀、母はさだといった。幼名の継之助は通称で、諱(いみな)は秋義。号は蒼龍窟。
継之助は子どものころは腕白でいたずら好きだったという。また、強情我慢で、大人の言うことをなかなかきかなかったとも言われている。
継之助の気性は母親のさだの気風を受けついだという評判もたった。
継之助が12歳になったころ、文学を山田愛之助と木村誠一郎に、剣道を鬼頭六左衛門に、槍術を内田甚弥に、弓術を根岸勝之助に、馬術を三浦治郎平に習った。
その後は長岡藩校の崇徳館で儒学を学び、講師である高野松陰の薫陶を受けて陽明学に夢中に。
河井継之助は1842年に元服し、名を秋義と変える。しかし、河井継之助は元服してからも継之助を名乗った。17歳になったとき、継之助は鶏を裂いて王陽明をたてまつり、「私は必ず国家の干城となります」と誓った。越後長岡藩の王陽明になることを公表したのだった。

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