長岡藩の武装中立

鳥羽・伏見の戦いに勝って勢いづいた新政府軍は、会津藩を征討するために小千谷(現在の新潟県小千谷市)に迫ってきた。新政府軍の勢いに長岡藩では、家老首座の稲垣平助や、藩主・牧家の先祖と兄弟分の契りを結んだという重臣の槙内蔵介、上級家臣の安田鉚蔵や九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門らが、新政府軍に対して、恭順の意を表し、戦いを避けるべきだと主張した。長岡藩内でのそうした動きに対する河井の考えは、「武装中立」だった。長岡藩が武装中立さえすれば、新政府軍は藩内への侵攻をあきらめるはずだと考えていた。そこで、河井継之助は自分の考えに反対する面々−たとえば、安田鉚蔵を永蟄居にするとか、新政府軍に恭順する藩士たちの拠点である崇徳館(長岡藩校)に部下の鬼頭六左衛門を隊長とする小隊を派遣して、恭順派の動きを牽制した。そうやって藩内の動きを封じる一方で、新政府軍と抗戦か恭順かに関する議論を抑えて、あくまでも長岡藩は武装中立の線でいくことを貫き通しながら新政府軍と談判し、旧幕府軍と新政府軍の調停を河井が行うことを申し出ることにしたのである。これが有名な小千谷会談である。

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